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「空集合{}が存在する」という言明は、実は「無が有る」というパラドックスを引き起こす?なんちってw2^0=1というのも、受け入れられない人がいるらしい。2^1=2,2^2=2×2,2^3=2×2×2,・・・というのはOKらしいのだが。「掛算を不変にするのが1だから」という理由は恣意的だということらしい。そういう意味では空集合も恣意的なんだろうな。ついでにいえば「アタマがいい・悪い」も実に恣意的なものである。
余りに影響力が大きいとともに、記述する余白がないため隠しといた事実を知られてしまったようです。そうなんです。存在公理と内包公理の組み合わせは矛盾を引き起こすのです。冗談はさておき、0 というのは、普通、「自然数」の仲間にさえ入れてもらえない場合が多く、なんか特別なんでしょうか。2^0=1 を受け入れられない人が円周率を受け入れるのは不思議な感じがします。といいつつ気持ちは分からないではないです。「整合性を保った拡張」に対して何か違和感を感じるのだと思います。数学を勉強する場合は損ですね。数学という学問が恣意的なのかどうかについては、余りに難しい問題で、どこから手をつけて良いかさえ見当がつきません。
>2^0=1 を受け入れられない人が円周率を受け入れるのは不思議な感じがします。でも円周率を認めたからといって虚数ベキやオイラーの公式を認めるとは限らないよ。私は無節操だから認めるけどねw。違和感を感じると数学を学べない、とは一概にいえません。佐藤幹夫は、シュワルツ超関数に違和感を感じたからこそ、ハイパーファンクションを思いつけたわけで・・・
「一階述語論理の公理」の方ですが、どうも構文論と意味論をごっちゃにしているように思いました。 最初に「公理」とあるから構文論の話をしてるのかなぁと思いきや、“∀xP(x) ⇒ P(y) は、例化できる y があって初めて真である。”などと書いておられて、これは明らかに意味論の話ですよね。 でも、構文論と意味論を分けずに同時進行的に議論するというのは、この方に限らず方々で見かけるような気がします。初心者にとって、文章の雰囲気は違和感が無いものだから、より立ち入った知識を得ようとしたところで混乱しなければよいと思いますが…。
そもそも述語論理の対象領域は空でないから、例化できるyは常に存在する。それゆえ∀xP(x)⇒∃xP(x)は成り立つとしていい。ただ、「∀x(P(x)⇒Q(x))から 無条件に∃x(Q(x))とはいえない」とか「∀x(P(x)⇒Q(x))かつ ∀x(P(x)⇒¬Q(x))だから 矛盾するとはいえない。」とかいうのは正しい。要するに∀x¬P(x)の場合もあるから。
ところで「φと{φ}の違いが分からない」というお友達の話ですが、そもそも「aと{a}は同じ」「a∈Aとは{a}⊂Aのこと」と思ってるんじゃないでしょうか?「実はaという個体が存在すると考える必要はない。 個体とはさまざまな性質の重なり合いを 1個の物と考えているだけのことであって 性質相互間の重なり合いを論じるのに 便利だからそう考えてるに過ぎない。」メレオロジーってのが上記の考え方なのかどうかは知りませんが。
違和感というのは少々違和感がある表現だったかも知れません。で、「一階述語論理」の方は私も違和感を感じたのですが、なんせ不勉強なのでそちらの方で具体的につっこむのはやめときました。構文論と意味論がごっちゃになってるんですか。モデルを考えるとき空でない対象領域を考えるので、「 |-∀x(P(x)) から |-∃x(Q(x)) を導出可能」という推論法則は成り立つような気がしますが (自信なし)、「∀x(P(x)) ⇒ ∃x(Q(x))」の方はよく分からないです。前にStromdorfさんのところでこれに関連する記載を拝見したことがあったような気がするのですが、もし私の記憶違いでないのでしたら URL を教えていただけるとうれしいです。本当のことを言いますと、一番カチンときたのはリンク先「一階述語論理」の(ここから引用)「教科書の記述が不親切で、余計な仕事をさせられた」(ここまで引用)の部分等、文章全体からもろに学生を馬鹿にしたような雰囲気が伝わってきたことなのです。
うーん、そこまで思っていたかどうかは不明です。ところろで私の関連する項目(http://evariste.jp/kagami/diary/0000/200611.html#20061113-1) での次の記述「彼が言うには φ と {φ} の違いが分からないというのです。で、そのときはどうしてこんなに頭の良い 人が、これほどあたりまえの事実の把握に失敗してるのか理解出来ず、通り一 遍に片方の要素の個数は 0 で、もう片方の要素の数は 1個なので違うじゃな い」は非常にまずいです。明らかに 0 と 1 の違いが分かってないので (^^
そういえば perl というプログラミング言語では(0,(1,2)) と ((0,1),2) と (0,1,2) が同じですよね。……関係ありませんでしたか。私はこれは誤設計だと思っていて、この原因はこの話と本質的には同じだと思うのですが。
あ、別に大層なことを言ってるんじゃなくて、「公理」っていうのは構文論の概念で、「真」っていうのは意味論の概念だから混じってるな、ってだけのことです。 ところで、構文論的に ∀xP(x)からP(x)が導けるっていうのは、Bourbakiで“悪用”されていて(笑)、無限公理を導入する前の段階で、空集合の公理を前提にせずに、空集合の存在を他の公理(分出公理)から導出しています。つまり、「∀x:x=x」が成り立つので、ここからx=x が導け、このxにおける、⊥(矛盾)を満たす元の全体からなる集合aが存在することがわかり、このaが空集合である、というわけです。
対象領域が必ず空でないという約束事のことですが、確かこのことに関してはB. Russellが著書でいろいろと述べていたと思います(Russell自身は対象領域が必ず空であると仮定する必然性は無い、という立場です)。これが、例えば空集合を可換環や体に含めるかとか、そういうことと同種の比較的trivialな例外であるという意見には同意しますが、述語論理(他の非古典論理とかでもそうですが)の、特に構文論的な扱いを勉強するときには、このようなテクニカルで細かい議論をきちんと追うべきだと思うので、この種のことにこだわるのは間違ってはいないと思います。これを重箱の隅でどうでも良いことと言うのはどうかなあ、と。{}云々のほうは、「集合論」に関しては、(「公理的」をつけなければ)残念ながら日本人のほとんどは確立された数学の専門分野としてではなく、「集合と位相」の前半くらいにしか思ってないんですよね。確か渕野先生も似たことを書かれてた気がします。「整数論の研究」と聞いて四則演算の計算練習を思い浮かべるようなものですけどね。ただリンク先の記事は「(素朴)集合論」と補って読めばそう目くじら立てる記事なのかな、という気もしないではないです。
(Stromdorf さん) Bourbaki がそういう方式で存在公理をパスしていたのは忘れてました。というか学生時代最初に読んだとき「よく分からんがそんなものかな」とスルーしたのかも知れません。読み直そうと探してるんですが現在行方不明。集合論好きなのに「ブルバキ集合論」を紛失するなんて情けない。いずれどこかから出てくると思いますので、そのとき眺めてみます。色々教えて頂きありがとうございます。
(標準モデルさん) 「重箱の隅」と書いたのは後悔しています。上の方にも書きましたがリンク先の「一階述語論理」のいかにも自分が教えている学生を馬鹿にした感じにぷっつんしたのでした。集合論に関しては、さすがに一階述語論理を教えている人があのような認識ではまずいと思います。ところで私の中で未だ解決出来てないのですが、「標準的自然数」って何か教えていただけるとうれしいです。
>Russell自身は対象領域が必ず空であると仮定する必然性は無い、という立場ですその場合∀xP(x)⇒P(y)は公理ではないと思うがな。これは重箱の隅ではないよ。
(nuc さん) すみません。Perl って全然知らないのですが、それが対象の有限列を表す記号だとすると明らかに仕様の誤りと思われます。
これは失礼しました。それは Perl のリストで対象の順序付き有限列を表します。参考までに。A Course in Model Theory : An Introduction to Contemporary Mathematical Logic (Universitext)は、対象集合が空集合を統一的に扱うためには、真なら \forall を偽なら \exists と余計な量化子を先頭に付けちゃえばよい、という立場のようです。
「空集合{}が存在する」という言明は、
実は「無が有る」というパラドックスを
引き起こす?なんちってw
2^0=1というのも、受け入れられない人がいるらしい。
2^1=2,2^2=2×2,2^3=2×2×2,・・・というのはOKらしいのだが。
「掛算を不変にするのが1だから」という理由は
恣意的だということらしい。
そういう意味では空集合も恣意的なんだろうな。
ついでにいえば「アタマがいい・悪い」も実に恣意的なものである。
余りに影響力が大きいとともに、記述する余白がないため隠しといた事実を知られてしまったようです。そうなんです。存在公理と内包公理の組み合わせは矛盾を引き起こすのです。冗談はさておき、0 というのは、普通、「自然数」の仲間にさえ入れてもらえない場合が多く、なんか特別なんでしょうか。2^0=1 を受け入れられない人が円周率を受け入れるのは不思議な感じがします。といいつつ気持ちは分からないではないです。「整合性を保った拡張」に対して何か違和感を感じるのだと思います。数学を勉強する場合は損ですね。数学という学問が恣意的なのかどうかについては、余りに難しい問題で、どこから手をつけて良いかさえ見当がつきません。
>2^0=1 を受け入れられない人が円周率を受け入れるのは不思議な感じがします。
でも円周率を認めたからといって虚数ベキやオイラーの公式を認めるとは限らないよ。
私は無節操だから認めるけどねw。
違和感を感じると数学を学べない、とは一概にいえません。佐藤幹夫は、シュワルツ超関数に違和感を感じたからこそ、ハイパーファンクションを思いつけたわけで・・・
「一階述語論理の公理」の方ですが、どうも構文論と意味論をごっちゃにしているように思いました。
最初に「公理」とあるから構文論の話をしてるのかなぁと思いきや、“∀xP(x) ⇒ P(y) は、例化できる y があって初めて真である。”などと書いておられて、これは明らかに意味論の話ですよね。
でも、構文論と意味論を分けずに同時進行的に議論するというのは、この方に限らず方々で見かけるような気がします。初心者にとって、文章の雰囲気は違和感が無いものだから、より立ち入った知識を得ようとしたところで混乱しなければよいと思いますが…。
そもそも述語論理の対象領域は空でないから、例化できるyは常に存在する。それゆえ∀xP(x)⇒∃xP(x)は成り立つとしていい。
ただ、
「∀x(P(x)⇒Q(x))から
無条件に∃x(Q(x))とはいえない」
とか
「∀x(P(x)⇒Q(x))かつ
∀x(P(x)⇒¬Q(x))だから
矛盾するとはいえない。」
とかいうのは正しい。
要するに∀x¬P(x)の場合もあるから。
ところで
「φと{φ}の違いが分からない」
というお友達の話ですが、そもそも
「aと{a}は同じ」
「a∈Aとは{a}⊂Aのこと」
と思ってるんじゃないでしょうか?
「実はaという個体が存在すると考える必要はない。
個体とはさまざまな性質の重なり合いを
1個の物と考えているだけのことであって
性質相互間の重なり合いを論じるのに
便利だからそう考えてるに過ぎない。」
メレオロジーってのが上記の考え方なのかどうかは知りませんが。
違和感というのは少々違和感がある表現だったかも知れません。で、「一階述語論理」の方は私も違和感を感じたのですが、なんせ不勉強なのでそちらの方で具体的につっこむのはやめときました。構文論と意味論がごっちゃになってるんですか。モデルを考えるとき空でない対象領域を考えるので、「 |-∀x(P(x)) から |-∃x(Q(x)) を導出可能」という推論法則は成り立つような気がしますが (自信なし)、「∀x(P(x)) ⇒ ∃x(Q(x))」の方はよく分からないです。前にStromdorfさんのところでこれに関連する記載を拝見したことがあったような気がするのですが、もし私の記憶違いでないのでしたら URL を教えていただけるとうれしいです。
本当のことを言いますと、一番カチンときたのはリンク先「一階述語論理」の
(ここから引用)
「教科書の記述が不親切で、余計な仕事をさせられた」
(ここまで引用)
の部分等、文章全体からもろに学生を馬鹿にしたような雰囲気が伝わってきたことなのです。
うーん、そこまで思っていたかどうかは不明です。ところろで私の関連する項目
(http://evariste.jp/kagami/diary/0000/200611.html#20061113-1) での次の記述
「彼が言うには φ と {φ} の違いが分からないというのです。で、そのときはどうしてこんなに頭の良い 人が、これほどあたりまえの事実の把握に失敗してるのか理解出来ず、通り一 遍に片方の要素の個数は 0 で、もう片方の要素の数は 1個なので違うじゃな い」
は非常にまずいです。明らかに 0 と 1 の違いが分かってないので (^^
そういえば perl というプログラミング言語では
(0,(1,2)) と ((0,1),2) と (0,1,2) が同じですよね。
……関係ありませんでしたか。
私はこれは誤設計だと思っていて、この原因はこの話と本質的には同じだと思うのですが。
あ、別に大層なことを言ってるんじゃなくて、「公理」っていうのは構文論の概念で、「真」っていうのは意味論の概念だから混じってるな、ってだけのことです。
ところで、構文論的に ∀xP(x)からP(x)が導けるっていうのは、Bourbakiで“悪用”されていて(笑)、無限公理を導入する前の段階で、空集合の公理を前提にせずに、空集合の存在を他の公理(分出公理)から導出しています。つまり、「∀x:x=x」が成り立つので、ここからx=x が導け、このxにおける、⊥(矛盾)を満たす元の全体からなる集合aが存在することがわかり、このaが空集合である、というわけです。
対象領域が必ず空でないという約束事のことですが、確かこのことに関してはB. Russellが著書でいろいろと述べていたと思います(Russell自身は対象領域が必ず空であると仮定する必然性は無い、という立場です)。
これが、例えば空集合を可換環や体に含めるかとか、そういうことと同種の比較的trivialな例外であるという意見には同意しますが、述語論理(他の非古典論理とかでもそうですが)の、特に構文論的な扱いを勉強するときには、このようなテクニカルで細かい議論をきちんと追うべきだと思うので、この種のことにこだわるのは間違ってはいないと思います。これを重箱の隅でどうでも良いことと言うのはどうかなあ、と。
{}云々のほうは、「集合論」に関しては、(「公理的」をつけなければ)残念ながら日本人のほとんどは確立された数学の専門分野としてではなく、「集合と位相」の前半くらいにしか思ってないんですよね。確か渕野先生も似たことを書かれてた気がします。「整数論の研究」と聞いて四則演算の計算練習を思い浮かべるようなものですけどね。
ただリンク先の記事は「(素朴)集合論」と補って読めばそう目くじら立てる記事なのかな、という気もしないではないです。
(Stromdorf さん) Bourbaki がそういう方式で存在公理をパスしていたのは忘れてました。というか学生時代最初に読んだとき「よく分からんがそんなものかな」とスルーしたのかも知れません。読み直そうと探してるんですが現在行方不明。集合論好きなのに「ブルバキ集合論」を紛失するなんて情けない。いずれどこかから出てくると思いますので、そのとき眺めてみます。色々教えて頂きありがとうございます。
(標準モデルさん) 「重箱の隅」と書いたのは後悔しています。上の方にも書きましたがリンク先の「一階述語論理」のいかにも自分が教えている学生を馬鹿にした感じにぷっつんしたのでした。集合論に関しては、さすがに一階述語論理を教えている人があのような認識ではまずいと思います。
ところで私の中で未だ解決出来てないのですが、「標準的自然数」って何か教えていただけるとうれしいです。
>Russell自身は対象領域が必ず空であると仮定する必然性は無い、という立場です
その場合∀xP(x)⇒P(y)は公理ではないと思うがな。
これは重箱の隅ではないよ。
(nuc さん) すみません。Perl って全然知らないのですが、それが対象の有限列を表す記号だとすると明らかに仕様の誤りと思われます。
これは失礼しました。それは Perl のリストで対象の順序付き有限列を表します。
参考までに。
A Course in Model Theory : An Introduction to Contemporary Mathematical Logic (Universitext)
は、対象集合が空集合を統一的に扱うためには、真なら \forall を偽なら \exists と余計な量化子を先頭に付けちゃえばよい、という立場のようです。